(1)ニース〜エズ  (2)エクス・アン・プロバンス〜アヴィニヨン  (3)アルル〜ポン・デュ・ガール  (4)リヨン〜ブールジュ〜シャン・ボール城  
 (5)トゥール〜モンサンミッシェル  (6)モンサンミッシェル〜オンフルール (7)ジヴェルニー〜パリ@  (8)パリA   (9)パリB
<フランスという国C>
フランスにやってきて4日目、いろいろと面白い発見があります。 交通の多い街にはどこにでもある歩行者用信号機ですが、フランスでは赤から青に、青から赤に 突然変わります。まだ道路の真ん中を渡っているのに、何の予告もなく突然、赤信号に変わるのです。 最初は慣れなくて慌てて走り出していました。しかし、この国の人々を見ていると、信号はほとんど見ていません。 車が来ているかどうかだけを見ています。で、車が来ていなければ信号は無視(笑) 慣れてくると僕たちも信号は見なくなりましたが・・・、事故がなければいいのでしょうね。
<4日目の朝>
早朝、リヨンの町を歩いていると最初に出会ったのは道路掃除をしている人。 犬の排泄物を道路に置きっぱなしにするフランスでは、やっぱり国が掃除をしているんですね〜。 日本では建物の前は、その建物の所有者が掃除をするものですが、 フランスではそういう考え方はないようです。もちろん、排泄物は犬の所有者がちゃんと始末をするのが 日本の常識ですよね。
<街の様子>
早朝のせいか、人通りがありません。写真は撮りやすいのですが、人のいない街はカフェインの入っていない コーヒーのようなもので、物足りない感じがしますね。
<旧市街>
今、歩いている地区が旧市街、ユネスコ世界遺産に指定されている地域です。 石畳の美しいヨーロッパを感じさせてくれる通りですね。
<トラブール>
旧市街には2本の細い通りがあり、それがメインストリートとなっています。 この2本の通りを繋ぐ隠れた通路をトラブールと呼びます。 トラブールへの通路は建物に入っていく玄関口のように見えるので、普通に歩いていてはちょっとわかりにくいです。
<トラブール>
旧市街にあるトラブールは、家々の中庭と隣の道をつないでいます。 リヨンには300弱のトラブールがあって、絹織物を運ぶ途中でデザインを盗用されないよう、 人目を避けるために作られたと言われています。
トラブールとは関係ないのですが、通りを歩いていると、ある店の前にこんな面白いショーウィンドウがありました。
<ルネサンス様式>
旧市街の風情ある街を歩いていると、写真に見られるような、 優雅な曲線を取り入れたルネサンス様式の建物が、所々に建っています。
<窓 税>
商業の街リヨンは、その裕福振りを「窓ガラス」で表したそうです。 昔フランスの各地では「塩税」など色々な税があり、中には「窓税」というのも合ったようです。 この「窓税」というのは窓枠の数で税徴収を決めていました。だからフランスの旧市街に行くと外側には窓がなく、 中庭に面して窓がたくさんあるのはそのためだと聞いたことがあります。そういえば、イングランドのコッツウォルズ では、窓の大きさで税が決められていたという話を思い出しました。
<教会の由来>
フルヴィエール大聖堂 (Basilique de Fourviere) はフルヴィエールの丘の上に建ち、 市内のどこからでも見ることができるリヨンの象徴的建物です。 街を歩きながら見上げると、朝日を浴びて輝いている大聖堂がありました。とても美しかったです。
<リヨンの歴史>
ローマ時代以前は、ガリア人が共同体をつくり生活をしていたそうです。紀元43年、 ローヌ川とソーヌ川の合流点の西側にあるフルヴィエールの丘に、カエサルがローマ植民都市ルグドゥヌム (リヨンの古名)を建設。461年にはゲルマン民族ブルクント族の王国、ブルクント王国の最初の首都となり、 1307年、カペー王朝フィリップ4世の時にフランス王国に併合されました。
<サン・ジャン大司教教会>
フルヴィエールの丘のふもと、初期キリスト教の洗礼堂などいくつかの聖堂があった場所に 12世紀に建てられた司教のための教会です。 ルイ9世がここに葬られていますし、14世紀の天文時計も保管されているそうです。 先にも書きましたが、このあたりは街全体が世界遺産になっています。
<噴 水>
サン・ジャン大司教教会の前は広場になっていて、こんな噴水がありました。 ヨーロッパ各地にはいろいろな噴水がありますね、一つ一つ比べて歩いてみたら面白いかも。
<ソーヌ川>
ソーヌ西側に古代ガリア・ローマ時代の遺跡のあるフルビエールの丘、中世からルネッサンス時代の 面影が残る旧市街があります。ローヌ川とソーヌ川にはさまれた半島地区はローマ帝国以来、 物資集散所となり、町の中心として発展してきました。そしてローヌ川の東側には、ビジネス街が広がっています。
<リヨンと日本>
リヨンと日本との間には、100年以上もの長い交流の歴史があるそうです。福沢諭吉は、 1861年から62年の幕府の遣欧使節の一員として訪欧した際リヨンに立ち寄っています。 中江兆民は、明治初頭リヨンで弁護士について勉学に励みました。 明治の初期、初めてフランスに日本領事館が置かれたのもリヨンだそうです。
<サン=テグジュペリ>
「星の王子様」で有名なサン=テグジュペリはリヨン出身です。 ベルクール広場にはサン=テグジュペリと、星の王子様の像が立っています。 あ、そうそう、明治40年(1907年)銀行行員としてリヨンに赴いた永井荷風は、11 ヵ月半のフランス滞在 (そのうちリヨンは8ヵ月)を『ふらんす物語』にまとめています。 「河霧立ちこめし河岸通の景色よし」など(ローヌ川の様子)
<日本語教育>
リヨンは日本語教育に熱心です。公立校は、二つの高校で第二外国語として日本語の選択が可能。 大学は、日本語科のあるリヨン第三大学の他、理工系のグランゼコール、商学系(ESC)で 日本語を第二外国語とするクラスがあります。 私立校でも2校が日本語教育を行っていて、フランス人一般に小学校からの日本語学習の道を開いているそうです。
<トイレ?>
リヨンに別れを告げ、次はブールジュに向かいます。 一般道を通っていくのですが、途中にトイレ休憩ができるような施設がないため、 こんな公衆トイレ?で休憩です(笑)
<ひまわり畑>
バスの中からの景色です。ひまわりは既に終わっていました。 枯れかけているひまわり畑の横を走っています。 そりゃそうでしょう、こんな時期に咲いているはずはないですよね。
<フランス語>
僕はフランス語はほとんどわかりません。読めないし、読めてもわからない。 でも、しばらくいるとHを発音しないということがわかってきました。 だから、Hotelは、ホテルではなく、オテルとなります。日本人の花子さんは、穴子さんと呼ばれます(笑) 発音は鼻に抜けるものが多くて、妙に色っぽい感じになります。 よくわかりませんが、英語やドイツ語とはかなり違っているように感じます。
<レストラン>
リヨンからブールジュまでは、なんと350km以上の距離があります。 ここは、道中、昼食に寄った「COLBERT」というレストランの庭です。
<晴天なり>
フランスに来て以降、雨が降っていません。 日頃の行いが良い証拠ですね。あ、でも去年のイングランドでは雨に祟られたか・・(^^;
<前 菜>
メインは魚料理だったのですが、写真の撮り忘れ。 これは前菜のキッシュ。デザートはテーブル中央の果物、先に出てきていました(笑)
<ブールジュ>
リヨンから382km、はるばるやってきたのはブールジュ大聖堂。 14世紀に完成されたゴシック様式の世界遺産です。手前の花を入れて撮ると素晴らしい写真になります。
<サン=テチエンヌ大聖堂>
サン=テチエンヌ大聖堂が正式名称ですが、ブールジュ大聖堂という呼称で世界遺産に登録されています。 これは、南扉口付近から見上げた光景です。
<南扉口>
南扉口で僕たちを出迎えてくれたのは、キリスト像とその頭上に並んだ弟子たちの像。 キリストを囲んでいるのは・・わかりません〜。ということで、ここから中に入ります。
<身 廊>
高さ37mの天井高、広大な空間に圧倒されます。 内部は思っていたよりも、明るいので写真は撮りやすいです。窓の数が多いのでしょうね。
<側 廊>
内部は5つの身廊で成り立っていて、正面入り口にそれぞれの身廊へと続く入り口があります。 ブールジュ大聖堂は建築史上、他のヨーロッパの大聖堂に影響を及ぼしたそうです。 ノートルダム・ド・パリはこれより前に作られていますが、後に再建された身廊の丸天井にはその影響があるようです。
<ステンドグラス>
13世紀に作られたオリジナルのステンドグラスが多く残る数少ない聖堂の一つです。 この大聖堂のチャペルや周歩廊のステンドグラスは、人の目線に非常に近いところにあるので、 しっかりと見ることができます。この写真のステンドグラスは祭壇奥にあるものですが、いつのものかはわかりません。
<ブールジュ>
ブールジュはフランス中部のロワール地区、パリの南約230qのサントル地方ルージュ県にあり、 町はガリア・ローマ時代から存在していました。 カエサルは、「ガリアで最も美しく、強い町である」と褒めています。
<西正面入り口>
5連の入り口が並んでいるのですが、残念ながら中央から左2つは改装中でした。 ここにある見事な彫像は、「天国への門」としての教会の究極の表現とも評されています。 特に中央扉口のものは「最後の審判」をあらわしているそうですが、今回は見ることができませんでした。
<内 部>
再び中に入り、気になった装飾を写真に収めます。 いつも思うのですが、古い教会や大聖堂は全体で一つの美術館だと。 これは妙に惹かれる像でした。
<誰ですか?>
この像は?像の右横にあるドクロマークが印象的ですが、意味不明。 見所いっぱいの大聖堂ですが、全部詳しく紹介できないのが残念です。
<ゴシック>
尖塔が建物に直接立っているというのが普通のゴシック建築ですが、この大聖堂は本体から 離れて、取り囲むように作られています。それが一層外観を引き立てていますね。
<花壇から>
再度、花壇から大聖堂を撮ってみました。青空がいい感じです。 さて、そろそろ次の目的地、シャンボール城に向けて出発です。
<シャンボール城>
ブールジュから125km、ロワールの古城の一つ、シャンボール城にやってきました。 日本で言えば、奈良の東大寺を見学して、次に彦根城を観光するような感じでしょうか(笑)
<みやげ物屋さん>
これはシャンボール城に向かう途中にあるみやげ物屋さんです。 ここでクッキーのお土産を大量に買い込みました。荷物がどんどん増えていきます。
<螺旋階段>
城の真ん中には、上がる人と下りる人が出会うことがないよう、二重の螺旋階段が作られています。 これは、ダ・ヴィンチが描いた理想の都市の階段を実現させたものです。
<フランソワ1世>
16世紀の初め、フランス国王フランソワ1世が情熱を傾けて築いたもので、建物内部には フランソワ1世の「F」とその象徴「火竜」の絵が施されています。
<ダ・ヴィンチ>
1515年に20歳で即位したフランス国王フランソワ1世は、即位直後にイタリアに兵を進め、 そこでルネサンスを代表する芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチと出会います。 王はダ・ヴィンチを熱心にフランスに誘い、アンボワーズ城の近くにダ・ヴィンチの館を用意しました。 写真の扉にもフランソワ1世を表すFと火竜が描かれていました。
<シャンポール城>
ダ・ヴィンチが死ぬと、王は悲しみを癒やすためにシャンボールの森に出かけました。 そして、愛着のある森にダ・ヴィンチの発想を取り入れた城を築きます。 シャンポール城は、ダ・ヴィンチのイメージを現実のものとした王の建築芸術なのだそうです。 写真はフランソワ1世の肖像画です。
<部屋の中>
シャンボール城はフランス革命時の略奪などで家具調度や装飾品はほとんど失われてしまい、 古い時代のものは残っていません。
<誰?>
この美しい女性の肖像画は、フランソワ1世にゆかりの女性なのですが・・ちゃんと説明を聞いていなかったため 誰だかわかりません。(^^;
<庭>
シャンボール城の屋上からの眺めです。 この庭だけがシャンボール城の敷地というわけではありません。 その他に庭の向こうに広がる1000ヘクタールの森もあります。
<中央の塔>
中央の塔には王家の紋章が輝き、中央の塔に向かって右の棟には王の部屋が、 左の棟には礼拝堂が築かれました。中央の塔の下には螺旋階段があります。
<ロワール川流域>
フランス中部を流れるロワール川の流域には、16世紀に王侯貴族が築いたフランス・ルネサンス建築の城館や 庭園が数多くあることから、「フランスの庭」と呼ばれ、世界遺産に登録されています。 写真は、外壁の彫像、サラマンダーの彫像も見られます。
<シャンボール城>
シャンボール城はフランソワ1世が狩猟用の邸宅として建てたもので、ロワール川流域最大の城です。 非常に豪華な城ですが、居住には向いておらず、 フランソワ1世は結局合計数週間しか滞在することはありませんでした。 ルイ14世(1638-1715)は、この壮麗な城を大変気に入り、バレエやモリエール演劇の上演を行ったり、 狩猟を楽しむために何度も滞在したそうです。1932年より国の所有となり多くの観光客が訪れています。
<公 園>
1974年に作られた狩猟専用地と野生動物保護地からなるこの広大な敷地には、鹿や猪など野生の動物たちが住んでいます。 また、希少な種の動植物の受け入れ、それらの再繁殖のための保護も行っているそうです。
<美しい外観>
湖に映るシャンボール城を撮りたかったのですが、風があって水面が落ち着きません。 でも青空に下の白い城は美しかったです。
<角度を変えて>
最後に別の角度から撮ってみました。比較するものではないかもしれませんが、 南ドイツのノイシュバンシュタイン城の美しさには及ばないですね。
<田園風景>
シャンボール城にお別れして、バスの中から田園風景を見ていると、 こんな橋がありました。これも古代の水道橋でしょうか? 次はアンボワーズ城の方面に向かいます。
⇒   5.作成中



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