(1)ブダペスト  (2)ドナウベント〜パンノンハルマ  (3)ウィーンT  (4)ウィーンU  
 (5)チェスキークルムロフ  (6)メルニック城〜プラハ (7)プラハT  (8)プラハU
<ブダペスト>
今回の旅行では訪問できなかったのですが、いくつか注目していたところがあります。 まず、温泉(笑)昔からブダペストの市民にとって温泉は身近な社交場で、健康維持のための大事な施設となっています。 100以上ある温泉は、医療施設の一環としても庶民の生活に浸透しているようです。 でも、日本の温泉とは違って、まるでプールのようです。
それから、アクインクム。古代ローマ帝国のとき、オーブダのほうには大きな町が造られ、 円形劇場や野外博物館、そして水路橋 の廃墟などがあります。 その町が Aquincum(アクインクム)と呼ばれました。
それから、シナゴーグ(Zsinagoga)。中世期から、ブダペストには沢山のユダヤ人が居住し、数百年間、 ユダヤ人は平和的に暮らしていました。しかし1944年以降、ユダヤ人の悲劇が始まったことは 周知の通りです。
これらは、今度、行く機会があれば是非訪問したいところです。
<ハンガリーの特徴>
ハンガリーについて日本ではほとんど知られていません。もちろん首都であるブダペストについても同様で、 ボクの周りの人たちの感覚では、東欧の田舎町といったイメージのようです。 しかし、高層ビルはないものの人口200万の大都市なのです。
いくつか気がついたことがあります。まず、ハンガリー人は、思ったほど背が高くありません。 もちろん個人差はありますが、173cmのボクよりも低い人がたくさんいます。 それから、東欧系の特徴でしょうが「若い」女性の半分が美人です。 どちらを向いても美人ばかり(笑)
それと、これはレイカさんから何度も注意された事ですが、人の多いところではスリに注意だそうです。 でも、これはどこの都市に行っても同じですね。
いい写真じゃないですが、ホテルから見えたブダペストの月(笑)
<センテンドレ>
センテンドレ(Szentendre)は、ブダペストから北へ20キロ離れ、ハンガリーの北部の真中、 Dunakanyar(ドナウ川の膝いわゆるドナウベント)に位置しています。 ここでドナウ川は南方へ急角度に右折しているので、そういう呼び名がついたようです。 朝の8時過ぎに到着しました。
<センテンドレ>
英語では、 St. Andrew(聖アンドリュー)と書きます。 つまり”Szent”はハンガリー語で「聖」、 ”Endre”は人の名前です。町には、同名の教会があるので、中世期から町自体はセンテンドレと呼ばれてきました。 写真は、街の丘からの風景。
<ローマ・カトリック教会>
セルビア正教会が多いセンテンドレで唯一の古いローマ・カトリックの教会で、丘の上に建っています。 13世紀に建てられた教会ですが、何度も改築を重ねており、現在残っている最も古い部分は14世紀のもの。18世紀に 大規模な改装がなされて現在に至っているそうです。
<セルビア人>
17世紀に、オスマン・トルコがセルビアへ前進した際に、多くのセルビア人が北方へ逃げました。 そのとき、逃げてきたセルビア人は、中世期のハンガリーの首都ブダ の北方で居住しました。 この街もセルビア人が造ったものです。
<特徴的な窓>
ハンガリーの屋根には写真のような窓が目に付きます。しかも、瓦はうろこ状。 何故こんな形なのかわかりませんが、東欧の特徴のようです。 これが2つ並んでいると、まるで人の目のように見えて可笑しいです。
<センテンドレ>
童話に出てくるようなかわいらしい町並みで、7つの教会と14のギャラリーと博物館がありアーティストの町でもあるそうです。 しかし、ボクたちが訪れた時間が早すぎたためなのか、今日が建国記念日のためなのか、店は開いていないし観光客もいませんでした。 しばらくすると、教会の鐘が鳴り始め住人達がチラホラと家から出てきました。 教会に向かっているのでしょうか?
<誰もいない街>
ギャラリーは開いていないし、店も開いていない。人にも会いません。 でも、観光客のいない静かな雰囲気が、本来のこの街なのでしょうね。 事前にスリに注意するように言われていましたが、杞憂でした(笑)
<中央広場>
ある旅行雑誌には、センテンドレには観光客がいっぱいと書いてあったのですが、やはり誰もいません(笑) でも、俗っぽい観光気分に浸るよりは、この方がボクは好きです。結局、町をウロウロしただけでした〜
<民家>
あの屋根に面白い形をした窓がある家の主人が出てきて、自分の家を見ていいよ、と言ってくれました。 せっかくの申し出なので、中に入らせていただきました。 外観と全然違う綺麗な内装にビックリ!
<エステルゴム>
早々にセンテンドレを発ち、エステルゴム(Esztergom)にやってきました。 センテンドレの少し西、ドナウベントの西の入り口に位置しています。 これは駐車場から見える大聖堂です。駐車場にはたくさんの土産物屋さんが並んでいました。
<大聖堂>
これがFoszekesegyhaz(フェーセーケセジハーツ)と呼ばれている大聖堂です。 大きい建築物なので、どこから来ても遠くから見えます。 教会の本館の長さは118メートル、ドームの高さは100メートル。 ハンガリーの最大の教会です。 。
<大聖堂>
傍に寄って、人と比較するとその大きさがわかります。 大聖堂の下でバイオリンを弾く女性、そして無関心にうつむいて通り過ぎる少年。 この構図が妙に面白く感じられました(笑)
<国 境>
実は、このエステルゴムはスロバキアの国境に位置しています。 大聖堂の裏に回ると、ドナウ河をはさんで向こう側がスロバキアの国、つまりドナウ河が国境になっています。
<フェリー>
一日中、様々なフェリーが対岸の畔にある Sturovo(シュトゥーロヴォ)という スロヴァキアの町へ走っているそうです。 わずか5分しかかからないとのこと。夏には、フェリーでブダペストまで行くこともできるそうです。
<内部見学>
中をゆっくり見学しようと思ったら、ありゃりゃ、集会が行われています。 今日は水曜日の午前・・・礼拝はないはず。建国記念日を祝っての集まりなのでしょうか。 これでは見学は無理ですね、残念です。
<気 候>
上の写真に見える橋、マーリア・ヴァレーリア橋は、1944年にドイツ軍により破壊されましたが、 2001年に修復が終わり、現在は対岸のスロバキアへ徒歩でも渡ることができます。 大聖堂から外に出て見上げると、こんな装飾がありました。
<歴 史>
もともとここにはケルト人の集落があったようですが、後に古代ローマ帝国が支配。 史記によると、Marcus Aurelius(マルクス・アウレリウス=紀元後161〜180年のローマ帝国の五賢皇帝の一人) がエステルゴムで「自省録」という有名な哲学的な叢書の第12巻を書いたとのこと。 そして、3世紀にローマ軍が城塞を設け、ソルウァ・マンシオと名づけたのが起源とのことです。 しかし、エステルゴムが繁栄したのは、聖イシュトヴァーンの父 Geza(ゲーツァ公)が972年にここへ移動してからです。 彼の息子 聖イシュトヴァーンは、ここで生まれて洗礼を受け、 数年後、戴冠されハンガリーの最初の王となり、第一次ハンガリー帝国を創立しました。 エステルゴムには、ハンガリーの最初の教会が築かれ、ハンガリー全体がキリスト教に改宗されました。
<その後>
当時、王様などは丘の上に居住して、僧侶階級は城下町に住んでいました。 1241年のモンゴル系民族の攻撃の後、王様は所在地を→ブダへ移動しましたが、僧侶階級はエステルゴムに残り、 丘の上の要塞に移動しました。そのときから、エステルゴムは大司教の所在地となり、 ハンガリーの宗教的な中心となったようです。その後、オスマン・トルコはエステルゴムを崩壊しましたが、 大部分は18・19世紀に再建され、今日に至っています。
<丘からの眺め>
大聖堂の丘からは、エステルゴムの山や町が見渡せます。 ちょうどスロバキアと反対側の風景を撮ってみました。
<クイズ2>
エステルゴム大聖堂の見学が終わり、駐車場に向かう途中に、ある果物の木を見つけました。 それは何でしょうか?
<クイズの選択肢>
1.ぶどう 2.りんご 3.かき 4.すもも 5.パインアップル
答えは、2.リンゴでした。参加ありがとうございました。
<パンノンハルマ>
エステルゴムを後にし、パンノンハルマ市にやってきました。 ここの小高い丘の上にベネディクト会修道院が建っています。 996年にハンガリー初のベネディクト会修道院として、ゲーザ(Geza)によって創設されたものです。
<昼 食>
見学の前に腹ごしらえ♪ここは、パンノンハルマの麓にあるレストランです。 昼食は・・・牛肉の煮込みだったと思います。 食べる事に集中してしまって・・マメに写真を撮らないとダメですね〜(^^; 美味しかったです。
<修道院>
レストランから出て見上げると、修道院が見えています。 12世紀には火災で焼失しましたが、1224年にゴシック様式で再建されました。 現存するハンガリー最古の建物ですが、今でも学校や修道院として使われています。
<DVD>
駐車場近くにビジターセンターがあり、紹介DVD(日本語版)を見せてくれました。 修道院についての説明DVDでしたが・・・勉強になりました(笑) その後、ビジターセンターの階段を登り、整備された山道を歩いて修道院へ向かいます。
<聖マルトンの丘>
修道院は聖マルトンの丘に建っており、ここからパンノンハルマを一望することができます。 パンノンハルマは、1996年12月に創立1000年と重なり、UNESCOの世界遺産に指定されました。
<修道院の塔>
996年創設後、ボヘミアから招かれた修道士たちがイシュトヴァーンの保護のもと、 ここを拠点にしてハンガリーのキリスト教化に努めました。 モンゴル軍の襲来やオスマン・トルコの支配の歴史の中で、幾度となく増改築を繰り返しています。
<入り口>
今日でも、約50人の修道士が修道院で暮らしていますが、観光客と会うことは滅多にないそうです。 また、修道院には男子の寄宿学校であるパンノンハルマのベネディクト会中等学校 が併設されているようです。写真は、クジャクの彫刻のある入り口。
<聖マルティン礼拝堂>
ここは聖マルティン礼拝堂。同じベネディクト派のメルク修道院(昨年の旅行記を参照)と比較すると、 こちらの方がずっと地味です。黄金色には輝いていないけど、落ち着いた美しさですね。
<ワイン>
ヨーロッパの修道院ではよくあることですが、ワイン畑を持ちワインの醸造を行っています。 この修道院でしか手に入らないワインがあります。・・・写真のパイプオルガンとは何の関係もありませんが・・(^^ゞ
<地下室>
この礼拝堂の地下には、ハプスブルグ家 フランツ・ヨーゼフの皇太子ルドルフの后であるシュテファニーが眠っています。 地下室の柱がとても印象深い形をしていたので撮影したかったのですが、人がたくさんいて撮る事ができませんでした〜
<改 修>
オスマン帝国に支配されていたときに調度品のほとんどが破壊されたようです。 その支配の後、最も重要な修繕が1720年代にBenedek Sajgho大修道院長のもとで行われました。
<ステンドグラス>
聖堂の最後の大改修に当たるのは1860年代のFerenc Stornoによるものです。 この時に中心の聖餐台、説教壇、天井のフレスコ画、聖マルティヌスを描いた上段のステンドグラスなどが加えられました。
<訪問者>
パンノンハルマの大修道院は、多くの宗教関係者の訪問も受けています。 20世紀末以降に限っても、モスクワ総主教アレクシイ2世(Alexius II, 1994年)、 教皇ヨハネ・パウロ2世(1996年)、ダライ・ラマ14世(2000年)らが訪れているそうです。
<図書室>
昨年訪れたメルク修道院の図書室もすばらしかったのですが、この図書室も見事です。 蔵書は36万冊以上とか・・メルクが10万冊であったのに比べると3倍以上です。
<三脚OK>
メルクでは、三脚を立てて注意を受けたのですが、この図書室はフラッシュがダメなだけで、 三脚はOKとのこと。迷惑にならないように注意しながら天井のフレスコ画を撮影♪
<公文書>
修道院の収蔵品として重要なものは、主に公文書です。 特に重要なものとしては、最古のハンガリー語で書かれているという公文書、1055年のティハニ修道院の創立文書が有名です。 もちろん、展示されているのはコピー(笑)
<重要文書>
もう一つ重要な文書は、1002年にイシュトヴァーン王によって発行された修道院の権利を認める勅書です。この勅書によって、 パンノンハルマ修道院は、ベネディクト修道会の最初の修道院であるモンテ・カシノの修道院と同等の権限が認められたそうです。 写真は、図書室の入り口方向の図。
<見学終了>
修道院の内部を全部見て回ったわけではありません。ほんの一部を駆け足で回ったという印象です。 でも、ちゃんと下調べをしていくと、見て回る際の意識が違いますね。
写真は、出口付近の緑です。
<ホイリゲ>
ハンガリーの観光を終え、オーストリアにやってきました。 今年もホイリゲで夕食です(笑)昨年とは違った店ですが、バイオリンとアコーディオンの演奏はここでも同じ。
<チップ>
美味しいワインを飲みながらの楽しい食事でした。 演奏者は、客からリクエストを取りその演奏をすることでチップをもらっています。 だから日本の唱歌や歌謡曲など、とてもよく知っています(笑)
<虹>
食後、外に出ると薄暗くなった空に2重の虹がかかっていました。 どうやら雨が降っていたようです。ウィーンで虹が見れるとは!なんだか変な感じでしたが、ちょっと得した気分(笑)
<本日の予定終了>
虹を眺めながらホテルに向かいます。 センテンドレ、エステルゴム、パンノンハルマとよく歩きました〜 明日に備えて今夜はホテルでゆっくり休憩です。
<クイズ3>
パンノンハルマからウィーンに向かう途中、乗っていたバスが止まってしまいました。 バスの前方を見ると、なんと1台の乗用車が道路脇の川に突入しています。周囲には車の破片が散らばっており、 パトカーが数台狭い道路を封鎖しています。対向車も止められています。 10分程待っていましたが、どうも封鎖が解除される気配はありません。 このままではどんどん時間が過ぎていくだけです。さて、ここでボクたちの乗ったバスの運転手がとった行動は次のどれでしょうか? (終了しました)
<選択肢>
1.川と反対側の畑に乗り込み、封鎖を回避して前に進んだ。
2.川と反対側の畑にバックで進入し、Uターンした。
3.Uターンできる交差点まで300m、来た道をバックで引き返した。
4.封鎖しているパトカーのおまわりさんに丁寧に交渉し、道をあけてもらった。
5.封鎖しているパトカーのおまわりさんを怒鳴りつけ、道をあけさせた。
正解は、3.来た道を300mバックした、です。
⇒   3.ウィーンT



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送