<チェスキークルムロフ>
NHKの探検ロマン世界遺産の旅やうるるん滞在記などで日本にも紹介されたチェスキークルムロフ。
ここは、500年前の街の姿がそのままの形で残され、かつて「眠れる森の美女」と呼ばれた街です。
ヨーロッパ内陸の国、チェコの南部(南ボヘミア地方)に位置するチェスキークルムロフの誕生は13世紀、
高台に貴族の城が築かれたときです。その後周囲に街が作られ、この地方の中心都市として発展しました。
世界遺産に登録されているのは、700メートル四方の旧市街で、その旧市街を、
作曲家スメタナの交響詩で有名なモルダウ川(チェコ名ブルタヴァ川)がS字に貫いています。
今回の旅の目的の一つがこの街を訪れることだったので、朝からワクワクしていました。
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<ウィーンを発つ>
早朝、シェーンブルン宮殿の近くにあるホテル「カバリエリ」を出発、
一路チェスキークルムロフを目指します。ウィーンからは距離にして約200km、
京都を起点にして考えると、愛知県の東部くらい離れています。
いよいよ楽しみにしていたチェスキークルムロフ観光に出かけます。
これは朝のシェーンブルン宮殿の前を抜ける時にバスの中から撮った写真です。
邪魔をしているトラックを撮ったわけではありません(笑)
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<チェコ>
ヨーロッパならではの平原です。ウィーンを離れると、すぐにこのようにのどかな平原が見えてきます。
チェコは農業国なので、近づくにつれて次第に畑が多くなります。
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<国 境>
ここはオーストリアとチェコの国境、元国境管理事務所です。
2007年12月にチェコもEUのシェンゲン協定国入りしたため、パスポートのチェックはありません。
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<到 着>
約3時間かかってチェスキークルムロフに到着しました。
町の北駐車場からプラーシュチョヴィー橋をくぐり、ヴルタヴァ川にかかる橋を渡ると、
左手崖の上にチェスキークルムロフ城が姿を現します。なんともいえない・・感動的な光景でした。
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<クルマウ>
チェスキー・クルムロフ (チェコ語)ドイツ語ではクルマウKrumau (Krummau) an der Moldau、
またはBohmisch Krumau (Krummau)。クルムロフは「川の湾曲部の湿地帯」を意味し、
ドイツ語のKrumme Aueをその語源としています。チェスキーは、チェコ語で「ボヘミアの」という意味です。
1920年以前はクルマウ・アン・デア・モルダウという名称で知られ、
古い地図には単にクルマウ(Krumau)と記載されていることが多いようです。
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<崖の上>
チェスキークルムロフ城は、写真のように崖を利用してその上に建てられています。
その下はヴルタヴァ川が流れ、強い日差しの中で、子ども達が大勢ボートや水浴びなど、川遊びをしていました。
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<広 場>
橋を渡り、まずはスヴォルノスティ広場にやってきました。
周囲の建物は、ルネサンス様式から初期バロック様式まで見ることが出来ます。
さて、街を見て回る前に、まずはここで腹ごしらえです。
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<食 事>
ここが昼食を取ったレストランです。ん〜何を食べたかは忘れましたが、美味しかったです(笑)
食後、観光中もトイレをフリーで使わせていただきました。
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<歴 史>
13世紀に南ボヘミヤの大地主ヴィテーク家領主クルムロフが城を建設したのが町の起源とのことです。
1302年に、クルマウ(チェスキー・クルムロフ)の町と城は、ボヘミアの有力貴族であったローゼンべルク
(ロジェンベルク)家のものとなりました。
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<ルネサンス>
14世紀以降、町では手工業と交易が盛んになりました。16世紀、
領主ウィルヘルム・フォン・ローゼンベルクの時代には、ルネサンス様式の建物が数多く建築され、
その創設時の最も古い一部は、今も残っているとのことです。
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<展 望>
現地のガイドさんが、いい眺めの場所を教えてくれました。
行ってみると、ワオ〜これは素晴らしい景色です!青空とチェスキークルムロフ城の美しい塔、赤い屋根の町並み!
2年前、マッターホルンを目の前にした時と同じ感動を覚えました。
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<ルドルフ2世>
さて、町の華やかな装いとは裏腹に、ローゼンベルク家の財政は次第に破綻を来たすようになり、ついに借金の抵当に入れられた
クルマウ(チェスキー・クルムロフ)は、1601年、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の手に渡ることになります。
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<エッゲンベルク>
その後、1622年、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、当時、神聖ローマ帝国全土を巻き込んでいた
三十年戦争において、財政面を含む貢献のあったエッゲンベルク家にこの町を与えました。
この時代に、町にはバロック様式の建築物が加わったようです。
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<シュヴァルツェンベルク>
1719年、エッゲンベルク家が断絶し、有力貴族のシュヴァルツェンベルク家が町と城を相続することになります。
領主ヨーゼフ・アダム・シュヴァルツェンベルクの時代に、城にはバロック様式が加えられ、
後に有名となる城内劇場(バロック劇場)が完成しました。
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<衰退期>
19世紀に入り、シュヴァルツェンベルク家は、新たに英国風のネオ・ゴシック様式に改築された
フルボカー城に居城を移します。また、産業革命期にあって、この町は、主要な鉄道網から外れ、
大規模な工業化もみられなかったため、町は緩やかな衰退へと向かっていきます。
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<クイズ8>
さて、ここで問題です。 広場からチェスキークルムロフ城に向かって歩いていると、
ヴルタヴァ川にかかるラゼブニツキィ橋の上に
ある人物の像が建てられていました。この写真に写っている人物は誰でしょうか?
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<選択肢>
以下の5つから正しいものを選んでください。
1.画家エゴン・シーレ
2.聖ヤン・ネポムツキー
3.聖フランシスコ・ザビエル
4.聖カルヴァリ
5.ヴィテーク家領主クルムロフ
答えは、2.ネポムツキーでした。
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<民族主義>
1867年、クルマウは、オーストリア=ハンガリー帝国の一部となり、
次第に、民族主義が、帝国全土を揺るがすようになりました。
学校教育や図書館などが、次第にドイツ系とチェコ系に分離するようになり、
1910年時点における町の人口は8,662人でしたが、そのうち、ドイツ系が7,367人、チェコ系が1,295人でした。
第一次世界大戦の敗戦に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、町はチェコスロバキア領となり、
1920年4月、チェコスロバキア内務省令により、町の公式名称もクルマウからチェスキー・クルムロフとなりました。
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<城の塔>
ラゼブニツキィ橋の上には、様々な国からやってきた観光客でいっぱい!
ドイツやオーストリアを回る観光客が立ち寄っているそうです。
1992年に世界遺産に登録された事で、観光ブームに拍車がかかったとのこと。
土日にはもっと混み合うのでしょうね。
橋を渡って見上げると、素晴らしい青空にカラフルな城の塔が映えていました。
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<赤い門>
チェスキークルムロフは、けっこう坂道が多いです。橋を渡り坂道を登って、赤い門をくぐります。
写真に見える入口が「赤い門」と呼ばれる入口です。ここから、城の内部に入って行く前に壕があり、
そこでは400年も前から熊が飼われているとのこと。本当に熊がいました!
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<だまし絵>
チェスキークルムロフ城の壁の模様は、すべて絵で描かれたものです。
このブロックが積まれたように見える外壁も、描かれた「だまし絵」です。
これが実にいい雰囲気を出しているとボクは感じました。
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<ドイツ領>
1938年、ナチス・ドイツは、チェコスロバキア領内のドイツ系住民の権利が侵害されているとして、
いわゆるズデーテン地方の併合を強行しました。これにより、チェスキー・クルムロフを含む
ボヘミアのドイツ語圏地域はドイツ領となりました。
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<ナチスの敗北>
1945年、ドイツが第二次世界大戦に敗北すると、チェスキー・クルムロフは、
独立を回復したチェコスロバキアに復帰しました。しかし、ドイツ系住民については、
ベネシュ大統領の指令(ベネシュ布告)により、チェコスロバキアの市民権と私有財産を剥奪、
没収することが決定されたのです。
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<ドイツ系住民>
チェスキー・クルムロフの住民の多くはドイツ系であったため、ベネシュ布告により、
多くの住民は市民権と私有財産を剥奪、没収され、故郷から追放されてしまいました。
神聖ローマ帝国の時代から続くドイツ系住民とチェコ系住民の共存の時代はこうして幕を閉じました。
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<荒 廃>
1945年以降、チェスキー・クルムロフは荒廃状態にありました。町の伝統的な住民の多くを追放したことは、
チェスキー・クルムロフのコミュニティーにとって大きな打撃となっていたのです。
町の住居の多くは、一時期、無人となっていました。
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<共産主義化>
1948年の共産主義化により、城郭などの歴史的建造物が「封建時代の遺構」とみなされ、
その価値を否定されたことも、町の荒廃に拍車をかけました。
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<スグラフィータ>
チェスキークルムロフ城を巡って、スグラフィータ(だまし絵)をたくさん見てきました(笑)
壁の模様だけでなく、窓も描かれたものがあることに気がついたでしょうか?
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<ロ マ>
1945年以降、チェスキー・クルムロフの中心部は、ロマの人々が多く居住する地区となっていました。
近年はチェコ人との同化も進んでいますが、現在も、チェスキー・クルムロフにおいて、
ロマはチェコ人に次ぐ第二のエスニック・グループとなっているようです。
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<塔に登る>
高いところ大好きなボクとしては、城の塔に登らないわけにはいかない(笑)
素晴らしい眺めを期待して螺旋階段を登ってきました。でも、塔の上部階段は人が1人通れるくらいの
幅しかなかったので、すれ違いに時間がかかりました〜
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<修 復>
1989年のビロード革命以降、町の景観の歴史的価値が再認識されるに至り、建造物の修復が急速に進められ、
町はかつての美しさを取り戻しました。そして、1992年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのです。
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<積木の町>
チェスキークルムロフ城の塔から見下ろす街の風景は、まるで積木の町を見ているようです。
赤い屋根と家の一つ一つがおもちゃ箱から飛び出してきたように感じます。
そして、その街の中をヴルタヴァ川が流れています。
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<フクシア>
塔から降りてくると、上り口の傍にフクシアが咲いていました。
この花の写真を撮っていると、チケットを売っているおじさんが不思議そうな顔をしてこちらを見ていました。
花を撮る人間が珍しいのでしょうか?
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<マリオネット>
チェコと言えばマリオネット、これはマリオネットミュージアム。
チェスキークルムロフの街を歩いているとやっぱり目につくのはマリオネットのお店です。
所狭しと様々なマリオネットが飾ってありました。
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<自由行動>
1989年のビロード革命以後、一帯に80軒を超える飲食店ができました。
多くのレストランは川沿いと城周辺に集中しています。
自由行動で街の中をウロウロしましたが、ちゃんと地図をみて計画的に動くべきでした。
教会の中や、東からの街の風景はまたいつか来る時に残しておきます(笑)
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<ビロード革命>
ビロード革命(チェコ語:Sametova revoluce)とは1989年11月に起こったチェコスロバキア(当時)における、
共産党体制崩壊をもたらした民主化革命のことです。
この革命では後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こりませんでした。
そのためこの革命を軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地に喩えて「ビロード革命」と呼んでいます。
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<街の風景>
チェスキークルムロフでは、現在も、クルムロフ城の内部の修復などが進められています。
1990年以降、毎年6月には、中世の領主であるロジェンベルク(ローゼンベルク)家の紋章にちなんだ
「五弁のバラの祭典」が開催されているとのこと。
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<街角にて>
通りを歩いていると、何かの職人さんでしょうか、彫り物をしている方がいました。
芸術家のようには見えないので、何かを作っている方なのでしょうね。
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<聖ヴィート教会>
この尖塔のある建物が、チェスキークルムロフの聖ヴィート教会です。
大きな建物なので、街のどこからも尖塔が見えています。
残念ながら、時間がなくて中には入ることができませんでした。
もちろん、その前を流れる川は、ヴルタヴァ川(モルダウ)。
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<南の橋より>
どんどん、南に歩いてくると、またまたヴルタヴァ川にかかる橋と出くわします。
この橋の南詰めから手前の古い建物を入れて聖ヴィート教会を撮ってみました。
この古い建物が実にいい味を出しています。
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<中世の町並>
この街は新しい都市への発展を拒否された街のようです。
中世の町並みそのままの姿で数百年の時を過ごしています。
今では、その観光都市としての重要性から、古い家の修復はしても新しい家を建てることは禁じられているとか。
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<広 場>
集合の時間が来たので、スヴォルノスティ広場に戻ってきました。
街の半分も見て回る事が出来なかったのですが、とりあえず満足です。
今度来る事があれば、ここで1夜を過ごし、いろんな角度から町全体を撮ってみたいものです。
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<クイズ9>
広場北側のこの白い建物は16世紀にルネッサンス様式で建てられた市庁舎です。
さて、市庁舎の左側には鐘がつるされていますが、これは市評議員を招集するためのもので、
後にはあることを知らせるために使われたそうです。それは何でしょう?
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<帰 路>
プラハに向けて出発の時間となりました。後ろ髪を引かれる思いでチェスキークルムロフを後にします。
帰り道、小さな橋の上でヴルタヴァ川の支流と塔が見送ってくれました。(^^ゞ
この塔の存在がチェスキークルムロフを一層魅力的なものにしていますね。
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<廃 屋?>
とにかく、1992年世界遺産に登録されるまでのチェスキークルムロフは、世の中から注目されず
見捨てられていたような街だったため、廃屋に近い建物がまだいくつか町の外れに残っています。
産業革命の洗礼を受ける事もなく、戦略的に重要な場所でもなかったこと、だからこそ、
このような古い町並みが残ることができたのでしょうね。
これは、街から外れて・・駐車場の近くの建物。
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<クイズ9の選択肢>
クイズ9の選択肢です。正しいものを1つ選んでください。
1.ヴルタヴァ川の増水
2.大量発生したねずみの襲来
3.オスマン・トルコ軍の襲来
4.飼っている熊が逃げ出した
5.火災発生
答えは、5.火災発生でした。
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⇒
6.メルニック城〜プラハ
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