<ウィーン>
ウィーンの町を歩いていると、この町を表す言葉がいろいろあって、首をかしげる事があります。
日本では、高地ドイツ語が使われる現地での発音に倣って、ウィーン Wienと表記・発音していますが、
標準ドイツ語でのWの発音は [v] なので、ヴィーンとも呼ばれます。
それは、どちらが正しいというものではありません。そして、
英語ではヴィエナ Vienna、フランス語ではヴィエンヌ Vienneと表されています。
それらの表記が町の中に混在しているのです。
ウィーンの町は、リンク Ring と呼ばれる環状道路で囲まれているのが特徴です。
このリンクの内側が町の中心部となっているので、ウィーン観光はこの中心部を見て回る事になります。
リンクをひと回りするトラム(市電)が便利ですが、リンクの端から端まで歩いても2、30分なので、
歩いて回る事もできます。
さて、ボクたちがウィーンで宿泊したホテルは、ピラミッド型の立派なホテル。
でも、見かけは立派ですが、ホテルとしては最低だと感じました〜。
詳しくはここでは話しませんが、ここで2連泊。(^^;トホホ
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<ホイリゲ>
グラーツから世界遺産に登録されているセンメリング鉄道を経由して、ウィーンにやってきました。
この日の夕食は、ホイリゲです。ホイリゲとは「今年の」を意味する「heuer」という単語が変化してできた言葉で、
「今年のワイン(das heuriges Wein)」つまり新酒を意味する言葉です。
そしてそれを飲ませるワイン専門の居酒屋を「ホイリゲ」と呼びます。
つまるところ、葡萄栽培農家が自分ちで自家製のワインを飲ませてくれる所ということです。
だからホイリゲでは、その農家のワインだけを味わうことができます。
ホイリゲにいくと、バイオリンを主体とした演奏家に出会います。
これがシュランメル音楽と呼ばれるもの。
19世紀半ばにウィーンで活躍していたシュランメル兄弟がホイリゲで演奏を始め、
評判になったのが始まりとのことです。
写真は、ボクのリクエストのこたえて、Eine kleine Nachtmusikを演奏してくれた
ホイリゲの自称「音大卒の音楽家」(笑)
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<早 朝>
ウィーン観光の最初は、リンクの外にあるベルヴェデーレ宮殿からです。
これは、宮殿入り口。
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<ベルヴェデーレ宮殿>
ラテン語で「美しい景色」という名の宮殿です。300年位前のオスマントルコとの戦いで有名な将軍「オイゲン公」
の夏の離宮として造られました。上宮下宮間の斜面に広がるバロック庭園の眺めの美しさが有名で、
世界10大美景と言われています。
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<オイゲン公>
帝国軍の総司令官であったサヴォイ家のオイゲン公(1663〜1736)は、不世出の軍事的天才として知られています。
彼の委嘱により、建築家ヨハン=ルーカス・フォン・ヒルデブラントはこの夏の離宮を設計しました。
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<クリムト>
ベルヴェデーレ上宮に展示されている絵画コレクションのハイライトはグスタフ・クリムトの作品群で、
その中には、名高い「接吻」や「ユーディット」が含まれています。
加えてシーレ、ココシュカの代表作、フランス印象派の作品も展示されています。
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<ブルックナー>
1895年7月に、ブルックナーはフランツ・ヨーゼフ皇帝の好意により、
ベルヴェデーレ宮殿の管理人用宿舎に引っ越しました。
彼はこの家で交響曲第9番の作曲に取り組みましたが、1896年10月11日に死亡しました。
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<庭 園>
上宮からゆるやかな斜面の庭園に続く下宮のうしろにはウィーンの街が望め、まさにその名にふさわしい宮殿です。
ウィーンのカップルの多くが、教会や市庁舎などで式を挙げた後、この庭園で記念撮影をする人気の場所です。
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<スフィンクス>
ベルヴェデーレ宮殿では、結婚式ができます。
「フォーマルウェディング」 の場合、なんと“国際的に法的効力のある「結婚証明書」”が発行されるとか…。
しかも日本の戸籍にも『オーストリア共和国方式により婚姻』と記載されるそうですよ。
庭園にあるこのスフィンクスの胸に触ると幸せになれるそうです。みんなが触っていくので真っ黒〜(笑)
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<シェーンブルン宮殿>
次に訪れたのは、ハプスブルク皇帝の夏の離宮だったシェーンブルン宮殿。
このバロック宮殿では、マリアーテレジア女帝やエリザベート皇后(シシィ)の暮らした豪華な部屋の数々が、
見学コースとして公開されています。
宮殿とその広大な庭園は、世界最古の動物園を含め、すべてがユネスコ世界文化遺産に指定されています。
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<広大な宮殿>
とにかく、広い!!建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180mあります。
また、正面右側翼には宮廷劇場もあります。
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<撮影禁止>
宮殿内では45の部屋が一般公開されていますが、
内部は撮影禁止なので、すばらしい内装や豪華な部屋を紹介できないのは残念です。
これは、内部見学の後に見学した美しい中庭です。
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<エアラッハ>
シェーンブルン宮殿はバロックの巨匠、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エアラッハによって、
17世紀末に建てられた宮殿建築の傑作です。エアラッハの名前は有名なバロック建築を語るときには
必ず登場しますね。
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<グロリエッテ>
広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上にあるのは、コリンの戦いでプロイセンに勝ったのを記念し
1775年建築されたグロリエッテという建物。手前にはギリシャ神話を題材にしたネプチューン噴水があります。
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<マリア・テレジア>
初恋の人だった夫との間に16人の子供をもうけたマリア・テレジア。
夫フランツ・シュテファンの死後のマリアの様子が肖像に描かれ、宮殿に飾られています。
マリア・テレジアは残りの人生の多くの時間を、宮殿内のある部屋で過ごしたといわれています。
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<クイズ第一問>
さて、ここでクイズです。「マリア・テレジアは夫の死後、この宮殿の何という部屋で、どのように過ごしたでしょうか?」
という問題でしたが、正解は「漆の間で、喪服を着て過ごした。」でした。
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<モーツァルト>
1762年10月13日、6歳のモーツアルトは父レオポルト、母アンナ・マリア、姉ナンネルとともに
シェーンブルン宮殿に伺候し、この鏡の間で女帝マリア・テレジア、皇帝フランツ1世の御前で
クラヴィーア(ピアノの原型)を演奏し、神童ぶりを発揮したそうです。
当時、女帝マリア・テレジアにはモーツアルトより1才年上の王女がありました。
モーツアルトがあやまって寄木の床にすべってころんだとき、王女がかれを助けておこしてやったら、
モーツアルトは「あなたはよい人ですね。ぼくと結婚しようか」と言ったそうです。
女帝がなぜかと聞いたら「お礼にです。彼女はぼくと仲がよいのです」とモーツアルトが答えたとのこと。
実は、その王女が後にフランスの国王ルイ16世の妃となったマリーアントワネットでした。
その後二人は会うことはありませんでしたが、亡くなった年齢も近く
(モーツァルト35歳、マリー38歳)共に悲劇的な最後を遂げました。
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<ウィーン会議>
「会議は踊る」で有名なウィーン会議も、シェーンブルン宮殿で開かれました。
会議は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、
1814年9月1日から開催されたのですが、ここの大広間で毎夜踊り明かし、各国の意見も合意に達しませんでした。
1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると、危機を感じた各国の間で妥協が成立し、
1815年6月9日にウィーン議定書が締結されました。ここで成立したヨーロッパにおける
国際秩序はウィーン体制と呼ばれていますね。
現在では、オーストリア政府は海外から国賓として訪れる賓客をここで国家公式晩餐会を開いて歓待しています。
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<ウィーン市立公園>
シェーンブルン宮殿を見学した後、ウィーン市立公園の近くのレストランで昼食。
オーストリア名物のウィンナー・シュニッツェル(子牛のカツレツ)、美味しかったです。
食後、ヨハンシュトラウスやシューベルト像が立っている、ウィーン市立公園をのんびり散歩してきました〜。
これは、公園の近く。トラムが走っていました。
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<カール・ルエーガー>
ルエーガーは、ロスチャイルド家などウィーン経済を支配するユダヤ資本に対して
市民の間に高まりつつあった反感を巧みに利用し、激しいユダヤ人攻撃をおこない、
1897年ウィーン市長に選出された人間です。
その演説は若きアドルフ・ヒトラーに多大な感化を与えました。
一方、市長になってからは反ユダヤ主義的発言は少なくなり、
都市整備をおこない、ウィーンの大都市化と都市生活の近代化に貢献したそうです。
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<ゼリンカ>
銅像には、アンドエアス・ゼリンカと彫られています。
有名な音楽家なのだと思いますが、正直言って知りません〜(^^;
とりあえず、写真を撮ってきました(笑)
この市立公園には、この他にシューベルト、ヨハン・シュトラウス、ブルックナーの銅像が
立っているのですが、全部見て来ました〜。町の人々の憩いの場になっていて、
日陰のベンチは占領されていました。しかたなく、お日様の下のベンチで一休み。(^^ゞ
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<シューベルト>
シューベルトは、1797年1月31日ウィーン近郊リヒテンタールに生まれました。
6歳から音楽教育を受け才能を現します。1808年から帝室コンヴィクト寄宿生として学び、さらに音楽に開眼。
1813年教職に就き、同時に本格的に作曲活動を始めました。
1815年までの短期間に「魔王」「野ばら」など有名作品を含む144曲の歌曲を作曲しています。
1828年11月19日ウィーンにて腸チフスにより31歳の短い生涯を閉じています。
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<ブルックナー>
アントン・ブルックナーは、1824年にこのオーストリアの田舎のアンスフェルデンで生まれました。
幼児の頃から楽器を巧みに演奏して、すぐに教会の合唱にも加わる様になりました。
後期ロマン派最大の 交響曲作曲家の一人で20世紀まで生きたグスタフ・マーラーの
交響曲にも影響を与えています。
ブルックナーの交響曲は、当時の音楽様式とはあまりにもかけはなれていた為に理解されない事もあり、
原作以外に弟子等による作品の改訂が行われ、同じ曲でも多数の異なった版が存在する事で知られています。
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<ヨハン・シュトラウス>
ヨハンヨハン・シュトラウス2世は、音楽の都「ウィーン」の代表的な作曲家です。
ヨハン・シュトラウス1世の長男で、弟には、次男のヨーゼフ・シュトラウスと
三男のエドワルト・シュトラウスがいます。生涯の多くを、ウィンナワルツの作曲に捧げ、
「ワルツ王」と評されています。毎年、元日に行われる「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」では、
彼の作品が演奏されることが多いですね。代表作に「美しく青きドナウ」や「皇帝円舞曲」があります。
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<交友関係>
作曲家ヨハネス・ブラームスやフランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナーと親交を結んでいました。
晩年にはジャック・オッフェンバッハの勧めでオペレッタなども手がけており、「こうもり」は有名です。
チャイコフスキーも彼の作品を愛したひとりで、バレエ音楽《くるみ割り人形》の
〈花のワルツ〉は、シュトラウスの様式に倣っています。
この金の像は、観光客に人気で、入れ替わり立ち代り記念写真を撮る人が絶えませんでした。
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<ベートーベン>
市立公園を南に抜けて、しばらく歩くと、ベートーベン公園があり、ベートーベンの銅像が立っています。
1770年12月16日ごろ、ドイツのボンで生まれました。
ベートーヴェンの父親は宮廷歌手でしたが、大酒飲みだったために喉を患っており、
収入はほとんどありませんでした。
幼い頃より、その父親から強制的な音楽の教育を受けることとなりますが、
父親の目的はベートーヴェンの才能を利用して収入を得ることしか考えていなかったそうです。
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<さらに南へ>
ベートーベン広場からさらに南に歩くと、ベルヴェデーレ宮殿が見えてきますが、
そちらには行かずに、南西のカールス広場へと向かいます。
ちょうどリンクの一筋外の道路を歩いている事になります。
見所がたくさんあるウィーンで、何を見て回るのか選択するのは難しいのですが、
ボクが選んだ次の目的地は、フレスコ画の美しいカールス教会です。
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<カールス教会>
カールス広場(Karlsplatz)までやってきました。カールス教会は、広場の南にデ〜ンと建っていました。
この教会もバロックの巨匠フィッシャー・フォン・エアラッハが手がけたものです。
女帝マリア・テレジアの父カール6世が、猛威を奮ったペストの終焉を記念して建てさせたもので
1739年に完成。ヨーロッパのバロック教会の中で最も美しいといわれています。
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<勝利の柱>
ハプスブルク家の栄華とその存続への願いを端的に象徴しているのがカールス教会の左右に立つ2本の『勝利の柱』です。
この柱にはそこからカールス教会の名前が取られたペスト聖人のカール・ボロメウスの生涯が
螺旋形の帯状に浮き彫りされています。これはローマ五賢帝のトラヤヌス帝とマルクス・アウレリウス帝の
記念柱を模して製作されたもので、それぞれ47mもの高さを誇っています。
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<主祭壇>
カールス教会にやって来たのは、事前の下調べで、カールス教会では仮設エレベーターが設けられており、
目の前で天井に描かれたフレスコ画を見る事が出来ることがわかったからです。
入場料は、確か5ユーロだったように思います。もっと観光客で混雑しているかと思ったのですが、
意外と少なく、落ち着いて見る事ができました。
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<聖母を描く聖ルーカス>
見学者は高さ32.5メートルまでエレベーターで昇り、さらに歩いて55.5 メートルの天井部分まで登ることができます。
そこからは、ウィーンのシンボル、シュテファン寺院や市庁舎などを見渡す事ができるのですが、
窓越しなので、写真は無理です。
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<聖ボロメウス>
主祭壇はフィッシャー(父)自身によってデザインされ、『聖ボロメウスの昇天』をテーマに
彫像群があしらわれています。中心で天使たちに囲まれているのが勿論聖ボロメウスで、
渦巻く雲の上に立ちながら天から射す光に導かれています。
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<エレベーター>
教会内に仮設されているエレベーターは、フレスコ画修復のために組んだ足場の一部です。
それを一般公開用に利用しているとのことです。
手を伸ばせば届きそうな間近な距離で美しいフレスコ画を見られた事はラッキーでした。
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<フレスコ画>
この天井画はペーター教会の天井画も手がけたロットマイヤーの作品で、
中央には聖カール・ボロメウスがペスト終息を祈って代願している様子が描かれているとのこと。
でも、どれが聖ボロメウスなのか判別し難いです〜
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<フレスコ画>
その他聖母マリアを初めとして多くの聖人や天使、また三位一体や天国など様々な宗教的シンボルなども
天井いっぱいに生き生きと描写されています。豪華絢爛な天井画で、一見の価値があると思います。
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<クイズ第二問>
さて、このハトのフレスコ画が描かれている場所はどこでしょうか?というクイズでしたが、
正解は、55.5 メートルの天井部分(一番高いドーム内の天井部分)でした。
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<紋 章>
ハプスブルク家の紋章、双頭の鷲が入り口の上部にありました。
この向こうに立派なパイプオルガンが見え、
パイプオルガンの上方の天井画には『聖ツェツィリエ(セシリア)の感謝』が描かれています。
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<コーヒー>
ウィーンの人々が日常的に多く飲んでいるのは、エスプレッソと温かいミルクを加えた上にミルクの泡を載せた
「メランジェ」と呼ばれるコーヒーで、日本で言うところのウィンナー・コーヒーという名称のコーヒーは存在しません。
また、日本では、アイスコーヒーと言えばただの冷たいコーヒーが思い浮かぶかもしれませんが、
ウィーンでアイスコーヒーを注文すると、冷たいコーヒーにバニラアイスと生クリームが
プカプカと浮かんだものが出てきます。
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ウィーンU
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